日本のデザインは遅れているのか??2021.04.08

独自の視点を持つ日本のデザインは独特?
それとも革新的?世界との差は?
島国日本は、独自の文化が根付いた稀有な国です。
ガラケーというものも、独自の生態系を持つガラパゴス諸島からの派生造語。
二つ折りの携帯電話がいまだに根付いているのは日本ぐらいなものというのを揶揄した言葉です。
そんな独自の視点を持つ日本においてデザインは果たして世界的にどうなんでしょうか。
絵画の分野ではかつてジャポニズムブームが西洋で巻き起こりました。
著名の画家の作品の中に浮世絵などが背景として描かれていたりするのは有名な話です。
またLouis Vuitton(ルイヴィトン)のモノグラムは日本の家紋をモチーフにしたこともこれまた有名なお話です。
しかし、そんな話は100年や200年前の話です。日本では江戸時代です。
明治維新以降は、日本は鎖国を解き、受け身の立場。諸外国の進んだ技術やデザインを
とにかくひたすら取り入れる側となりました。
はたして、それがいまだに続いているということなのでしょうか。
日本において、西洋は常にあこがれの対象です。
アジア諸国においてもそれは如実で、皆が心のどこかしらで西洋にあこがれています。
かつての戦争で日本をはじめとしたアジア諸国はアメリカやヨーロッパの軍事力に完膚なきまで叩き潰された苦い経験があり、強者へのあこがれをいまだに捨てられないのでしょうか。
日本のデザインにおいて、いまだに続く西洋人のモデル起用
日本のブランドなのに、西洋人のモデルを使う。そのブランドがグローバル展開をしない商品でも、
西洋人をモデルに起用し、英語のキャッチコピーを入れる。
我々日本人は『英語ってカッコいい』と潜在意識に刷り込まれています。
筆者も英語をデザインに入れると、とにかく『いい感じになる』と思っているうちの一人であることは否めません。
最近では、わかりきった外国人顔よりも、ハーフモデルを起用する傾向にあったり、純日本人の切れ長の目のモデルを起用することも増えてきました。
少しずつではありますが、西洋離れも進んでいるのでしょうか。
日本のデザインは繊細、複雑。
グラフィックデザインにおいて、日本のデザインはとても複雑です。
英語と漢字と平仮名とカタカナを、その時のニュアンスによって使い分けます。
多言語ポスターでもないのに、これだけの言語を一紙面に使用する国は日本以外にはありません。
海外旅行に行った際に、その国の現地のチラシやポスター、パンフレットを見たときに、
とてもシンプルで紙面のグラフィックとコピーがいい加減ながらも目に飛び込みました。
日本以外の国は、細かな文字詰めや文字間などをさほど気にしません。
でも、広告効果としてはしっかり伝えられているので、それはそれでOKでしょう。
要は目的がどこにあるかです。日本は細部に惹かれ、細部に美を追求します。
諸外国にはとにかく「伝わればいい」というとてもシンプルな論理のもとデザインをしています。
日本では、英語の見出しキャッチコピーに、それを補足する日本語をいれ、カタカナでルビを入れる。
ビジュアルで魅せるポスターや表紙ですら、まるで取扱説明書のような状態。
説明っぽい、のが日本のデザイン??
プロダクトデザインにおいても、
日本のデザインはやや説明的なデザインが多いように思います。
それは日本人の細かさからなのでしょうか。
日本の家電もスペックオーバーという言葉で批判されます。使いこなせないレベルの機能をこれでもかと詰め込んで、ユーザーにローンチします。
全ての機能を使いこなせる人は数%程度でしょう。アメリカやヨーロッパのプロダクトは至ってシンプル。本当に必要な機能を選りすぐってデザインしています。
取捨選択もデザインの大事な要素。何でもかんでも入れたがるクライアントに疲弊する、デザイナーの嘆きが日本のデザインの現場から聞こえてきます。
シンプルで日本独自のものを
では、立ち返って「和」を追求するべきなのでしょうか?たしかに、海外から日本に求められていることのほとんどが古き良き日本の文化的デザインだったりします。
家紋、着物、日本画、器、伝統工芸、匠…
しかし、単に立ち返り、それを追求するだけでは、ニューノーマルな世界の中で戦えるデザインを、創出できるとは言い難いと思います。
日本の古い工具や道具は、シンプルで使いやすい
ここにヒントが隠れているかもしれません。
使う用途を限定しシンプルで機能的なデザイン。マルチに使えるものは本当は必要ないのかもしれません。
マルチに5つの使い方ができる!という商品で、その通りに使っている人はあまりいません。
機能を限定し、シンプルに
もともと論理的な思考のできる日本の文化。
論理的に取捨選択して、削ぎ落としたデザインを発信していけば、より日本らしい侘び寂びのあるデザインになるように思います。
英語もカタカナもデザインのツールの一つでしかない。鉄砲伝来の時のように、良いものは素直に取り入れて、日本らしくリデザインしていけば、西洋の呪縛から脱せるかもしれません。
古きよきものを今風に取り入れながらも、今の時代や世界にあったグローバルなデザインをWEBやグラフィック、プロダクトの分野でも今後存分に発揮できるような広い視点が必要です。
その夜明けは、ニューノーマルの中、すぐそこに来ているのかもしれません。
mosikaistara
もしかしたら『新しい日本のデザインの夜明け』がコロナ禍で開花するかもしれません。
文:RIRISEA
文:RIRISEA

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